第1回人間関係講座〜内向型と外向型〜 要旨 大阪の幸朋カウンセリングルーム

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Lecture on Human Relationship

第1回人間関係講座 〜内向型と外向型〜 要旨

日時  2012年6月29日 午後7時〜8時40分
場所  大阪市西区民センター 第4会議室
講師  松波 幸雄

1. まず、講師の創作による事例「A子の場合」を朗読。
2. 続いて、パワーポイントを用い、「A子の場合」に見られる家族関係・人間関係における問題点を中心
 に、性格論の観点から人間関係の分析を行なった。
3. 参加者によって、所定の用紙に書き込まれた質問に対する応答。

創作事例 〜A子(派遣会社勤務 31才 独身)の場合〜

【カウンセリングを受けるに至った経緯】

A子が、私立大学の福祉学科を卒業したのは、今から9年前。
4年前に2度目の転職をし、現在は人材派遣会社の社員だが、昨年チーフという職につき、上下からの板ばさみによるストレスから会社に行けなくなって、うつと診断された。
2ヶ月前から休職している。休職期間は当初2ヶ月の予定だったが、現段階では復職できそうにないので、先日、医師の診断の上6ヶ月に引き伸ばされたばかりだ。
小学校の頃から何度か精神的な危機を体験してきたが、今回ばかりは自力で乗り越えられそうになく、もともと家族関係についてもひそかに抱えている問題があり、いろいろを見直すために思い切ってカウンセリングを受けることにした。

【ボランティア体験】

大学時代は、いちおう福祉の仕事に就こうと考えていた。そもそも福祉学科に入ったのは、できれば将来、少しでも誰かの役に立ち、喜んでもらえるような仕事がしたいと考えていたからである。
高校2年のとき、友達に誘われて、老人ホームでの体験学習を兼ねたボランティアに何度か参加したのが、福祉学科への進学を決めるきっかけだった。
初めて参加した日、A子が職員から指示された仕事は、ベッドの横や談話室の椅子に座り、お年寄りたちの話を聞くことだった。下働きみたいな仕事をさせられるものと思っていたので意外だったが、どうしたいきさつでそうなったのか、やはりそれは少し例外的なことだったようだ。

A子は小学校から中学にかけて、ほんの2年半ほどだったが、母方の祖母と同居したことがあった。
田舎の祖父が亡くなって、少し足が悪かった祖母を長女である母夫婦が引き取り、祖母自身が亡くなるまでの間だった。
祖母は聞き上手で、共働きで帰りの遅い母の代わりに、炬燵で学校であったことの話などを毎日聞いてくれたりした。ひょっとすると、親との会話を全部足しても、祖母との2年半の方がたくさん会話をしたのではないかと思うほどである。
祖母から聞いた昔の日本についての知識もあったので、A子にとっては、ホームでお年寄りと話すことにはまったく抵抗がなかった。
お年よりたちも分かったもので、死んだ連れ合いのことや昔のことをよく話してくれ、「あんた若いのにお話ししやすいわぁ」と言ってくれる言葉に嘘はないようだった。

【小学校時代のこと】

母は役所勤めをしながら家事をこなす、言わば根っからそつのない人だが、悪く言うと外面(そとづら)のいい人である。職場でもきちんと昇進し、今は課長職である。朝から晩まで機械のように働く点はすごいなあと思っていたが、A子の学業成績のことは気にする反面、学校での様子などにはほとんどまったく興味を示すことのない人だった。
また新卒で就職して以来、ずっと同じ会社の経理として働く父は、いわゆる頭の固い人で、自分のただただ堅実な生き方に何の疑いも持っていない。例えば脱サラしてやりたい仕事で生きようとする人たちのことを、せせら笑うようなところがあり、「あんな奴らにだけはなったらあかん」と自身たっぷりに子どもに説教する。
そんな父のことを、A子だけではなく母も内心見下しているようだったが、何かでA子を叱るときだけは、いつも両親の意見が一致していた。だから、A子が叱られるときは常に、誰からも助け舟はなかった。
そのような両親に対して、学校のことや今こんなことに興味があるという話をすることはなかったし、そもそも話せる雰囲気になったことがなかった。

A子には弟が1人いたが、両親がA子ら姉弟に接する態度は、明らかに違っていた。何かにつけて、A子にだけは「お姉ちゃんなんやから」と、子どもなら当たり前のわがままを言うことも許されなかったし、皿洗い程度だが低学年の頃から家事をさせられ、習い事にも勉強にもうるさく言われた。でも弟には明らかに甘い。というよりも、気を遣っているようにさえ見えた。
なぜ、よく手伝いをさせられている自分がしょっちゅう叱られて、何もしない弟が気を遣われているのか、A子にはさっぱり分からなかった。しかし、自分には叱られる何かがあり、弟には気を遣われる何かがあることだけは分かり、当然ながら深い兄弟コンプレックスが形成されていた。

弟は弟で、幼い頃は仕方なかったとしても、2つしか違わない姉が家事をやっているすぐ横で、平気でずっとテレビゲームを続けられるタイプだった。何の疑いもなく、自分のことを特別な存在だと思っている弟の感覚は、A子には理解できなかった。
小学生の頃から、たまらなくなって母親に不満を訴えたことは何度かあったが、まず何を言っているのか分からないような顔をされ、しまいにはイライラしだして「それはしゃあないやんか!」と、訴えるこちらがおかしいという勢いで片付けられ、下手をすると嫌味を言われた。
何がどうしゃあないのかA子には分からなかったが、気持ちは飲み込まざるを得なかった。

小学校5年の秋頃、やはり母親に不満を訴えたところ、虫の居所が悪かったのか、いつも以上に恐ろしい剣幕で却下され、罵倒された。その夜、A子はすごく恐い夢を見た。
ワンピースを着た母親が表情のない眼をうっすら開け、自宅の和室の柱に、立ってもたれかかっている。明かりは点いておらず薄暗い。身じろぎもしない母親の様子に、恐る恐る目を凝らして見ると、母はもたれかかっているのではなく、柱から出ているフックのようなものに、背中を吊り下げられているのだった。さらに目を凝らすと、その首にはくっきりと傷跡があり、首と胴をつなぎとめているらしい縫い目が見えたのである。

その夢から数日は、母親の眼を見るのも恐ろしく、そばにくると身が硬くなった。
夢だとは分かっていながら、自分の本当の母親はもうこの世にはおらず、この母親は作り物なのだという考えが、しばらくは振り払えなかった。ある晩などは、母親の風呂上りにその首筋を凝視していて、「何?この子」と怪訝そうに言われた。

その少し後、A子は学校で執拗ないじめに遭った。
A子は、もともと女の子のグループ感覚にはついていけないところがあったが、いちおうあるグループには入っていた。その中で、ある大人しいタイプの子が一時 ”はみ子” にされていたのだが、A子には、どうしても周りと同じように、その子をいじめることができなかったのがきっかけである。
どうしようか悩んでいたのだが、朝、学校でその子と会った瞬間、罪悪感に耐え切れず、ほとんど反射的に普通に話しかけてしまったのである。リーダー格の子はその場にいなかったが、グループの中の1人がいて、たちまちA子が次のターゲットとなった。

まず、リーダー格を含むグループの3人がA子のところにやってきて、A子のことをけなした。何を言われたのかほとんど思い出せないが、「きしょい」という言葉には女の子としてひどく傷ついた。言われている内容がまったく理解できないし、いきなりの攻撃だったので驚きの方が先に来て、結局一言も言い返せず、泣き出すことすらできなかった。
そのときの引きつった自分の笑顔を想像し、その想像した姿と「きしょい」という言葉が重なった。自分がひどくみすぼらしく、誰からも愛されない人間に思われた。

けなされた翌日からは、とにかく無視された。彼女らはA子の存在に気づいていないわけではなく、瞬間的には目が合うこともある。あるとき、グループの1人がちらっとA子を見たあと、笑いながら別の子に話しかけた。
話しかけたほうはチラチラとこちらを見ているようだったが、話しかけられた方は、いっさいA子のほうを見ることはなかった。それでも2人は部分的にしか話が聞こえないように、ヒソヒソ、クスクスと話し続けた。話しかけられた子は、もともとA子がかばった子だったので、そのショックは大きかった。 客観的にはこの上なくひどいことなのだが、それでもA子の中に湧いてきたのは怒りではなく、「こんな自分なんか、いなくなればいいのに」という思いだった。
A子は毎日1人で家に帰り、自室で泣き、本気で死ぬことを考えた。でも、ときどきふっと悲しくなくなるときがあり、そのときは悲しくない代わりに、シャーペンで自分の腕をガリガリと傷つけたい衝動に駆られた。何とか思いとどまったが。

【祖母が家に来る】

祖母が家に来たのは、いじめが始まってから2ヶ月ほどのことで、それはA子にとって紛れもなく救いとなった。A子が担当していた家事を、すべて祖母が引き受けてくれたことも大きかったが、何より大人の中で唯一祖母だけが、A子の様子がおかしいことに気づいてくれたのである。
弟が遊びに行って2人きりになったとき、様子を察したらしい祖母は、はじめはそれとなく、今学校では楽しいのかなどと尋ねてきたが、A子がまともに答えずにいると、
「あんた、いじめられてないか?」
と、静かにではあるが、はっきりと尋ねてくれたのである。自分がいじめられているということ自体認めたくはなかったので、もしもはっきり尋ねてくれなかったら、告白はできずじまいだったかもしれない。
何か答えなきゃと思った瞬間、出てきたのは言葉ではなく、堰を切ったような泣き声と涙だった。
「よしよし、お婆ちゃんが絶対何とかしたる」 と、A子の頭を抱えるようにして、太い指で撫でてくれたときにはもう、しゃくり上げながらあらん限りの声を張り上げて泣き、祖母の服をつかんでいた。祖母は、大地のようだった。

A子の話を聞くにつれて、祖母は相手の子らへの怒りをあらわにした。小学生に腹を立てても、大人気ないという考えなどは頭にないようだった。
その態度は、どんな慰めよりもA子にとっての救いになった。自分は間違っていなかったことが、はっきりとしてくるからである。もともと祖母のことは好きだったし、よく知っているつもりだったが、見たことのない迫力だった。

祖母からその話を聞いてなお、両親ははじめ担任との面談を渋っていたみたいだが(本当に信じられない!)、祖母はとくに父親を説き伏せてくれたようだった。両親が有給を使って学校に行き、担任と面談してくれたお蔭で、ほどなくいちおういじめは収まったが、ぎくしゃくとはしていた。
しかし、祖母のおかげで相手に対する怒りを感じることができていたので、以前ほど恐怖は感じなくなっていて、どうにかこうにか不登校にはならずに乗り切ることができた。でも、もともとけっこうはっきりと物を言う性格のはずだったA子だが、大人になるまで、それはほとんどできなくなっていた。

何とか5年生をやり過ごし、6年生になったA子は、アニメが好きな女子たちの小さなグループに、何とかうまく入ることができた。いわゆる変わり者と思われている集団であることは分かっていたが、彼女らの態度は大人びていて、言葉は常にブラックで、そして的を射ていた。しかし、それだからこそこのグループは、A子にはかえって裏切られる心配のない場所だった。
祖母に、彼女らの1人が「男子にこんなきついこと言うねんで」などという話をすると、楽しそうに手を叩いて笑ってくれた。祖母のことは、はじめはただ孫思いの老人としか思っていなかったが、実は彼女らとかなり似たブラックかつ聡明なタイプで、そして自分の性格も本当は祖母に似ているのではないかと思った。
母も、どことなく棘を含んだ調子ではあるが、「あんたはお婆ちゃん似や」と言っていた。どうやら母は、実の親である祖母を少し苦手に感じているらしかった。だが、31歳でカウンセリングを受けるまで、実は母がA子自身のことも少し苦手だという発想には至らなかった。

中学2年になってすぐに祖母が死んだとき、A子は悲しみを通り越して、1週間ほど呆然とした。祖母は亡くなる前、ほんのわずかしか寝つかなかったので、現実感のない、まるで夢のような死だった。いや、祖母が死んだことよりも、祖母がいた2年半の方が夢だったようにさえ思われた。
しかし後になって、祖母がうちにやってきたのは、人生最後の時間を使って、自分と似たA子を助けるためではなかったか、という気がした。今でも辛いことがあると、自然と祖母のお墓に足が向く。

【大学時代〜新卒就職】

大学に入り、専門科目の授業を受けたり実習に行ったりする中で、「やっぱり自分は、福祉には向いてないんじゃないか」と感じるようになった。困っている人の役に立つことは確かにいいことだとは思ったが、その仕事に喜びを感じる自分が、どうしてもイメージできなかったのである。ホームでお年寄りの話を聞いた体験で抱いた、福祉の仕事に携わりたいという素直な気持ちと、大学で習うことが、どうしてもうまくつながらなかった。

そんな迷いもあって、A子が本格的に就活を始めたのは、4回生になってからだった。
結局は福祉の仕事を探さず、手堅い人生を順調に歩んできた父親の強い押しに流され、なんとか金融系の会社に就職した。そういえば父は、そもそも福祉学科に進学するときにも、あまりいい顔はしていなかった。
しかし入社早々、思っていた以上に、変化の少ないルーティーンワークが苦手だということに、自分自身気づかざるを得なかった。きちんと意味のある書類はいいとしても、他の女子社員は、ほとんど意味のない書類を作ることにも何の疑いも持たないようだった。それでいて、上から指示されていないことについては、どう考えても必要なことであってもスルーするのである。父と母が、こういう仕事を何10年もこなし続けてきたのかと思うと、彼らのことがこれまで以上に、異様に大きく感じられた。
そこに不安やストレスを感じない感覚が、A子には理解できなかった。そして、逆にそんなことにストレスを感じる自分に対し、「自分は社会人に向いていない」という劣等感を感じざるを得なかった。

〈このストーリーは、第2回人間関係講座へと続きます〉

解説

A子の性格……内向型

《内向型と外向型について》
もともとは、心理学者ユングが提唱した性格の型で、日本でもなじみがある概念。

外向型……外界のできごと(おもに人間関係)により関心が強く、刺激され反応しやすい人々のこと。
内向型……自分の内側に生じること(感情やイメージ)のほうにより関心があり、刺激され反応しやすい人々のこと。
※ただし、誰にでも内向的な面と外向的な面はある。どちらが優先するかによって決まる。

《この概念の問題点》
内向型の人の場合でも、人間関係そのものには強い関心を持っている人は多いし、外向型の人でも、実は他人の感情などにあまり興味のない人はいる。つまり、この概念には少なからず曖昧さが含まれる。
そこで、講師独自の視点を加味して、「内向型・外向型」を捉えなおしてみた。

《現実場面での外向性(外向型)》
他者との力関係(パワーバランス)、また集団における自分のポジション(地位)に関心を払い、自らの地位を「外交努力」によって築こうとする心理的方向性。
こうした傾向が常に優先され、習慣化している人々を 外向型と呼ぶ。
※「外交努力」……闘争・競争において勝つこと、上位者に対して従順に振る舞うこと、あるいは少しでも仲間を増やして協力体制を築くなど、地位保全のための直接的な努力。
必ずしも「社交性」とは一致しない。

《現実場面での内向性(内向型)》
自分の内側に生じる喜び・楽しみ・充実感・安堵感などを追求する心理的方向性。
他人との直接的な力関係よりも、こうした傾向が優先され、習慣化している人々を内向型と呼ぶ。
本来、内向型の人々の場合、外交努力に煩わされることが少ない分、集中して特定の技能や知識量をアップさせていく傾向が強い。

《内向型の一般的な社会適応の方法》
知識量や技能や論理性の高さ、あるいは勤勉さなどによって周囲から必要とされ、結果として地位を得る。もっとも昨今は、集団内における内向型の評価が低く、劣等感を感じているため、思うように能力が伸ばせないでいる人は少なくない。

◎近年、なぜ内向型は劣等感を感じやすいのか(実際に評価が低くなりがちな理由)
・集団内の地位確保、目先の勝負にあまり興味がないため、後れを取りやすい。
・ものごとの判断に時間がかかるため、後れを取りやすい。
外向型の長所が分かりやすいのに対し、内向型の長所は、周囲から認識されるのにかなり時間がかか
り、ある程度の付き合いの深さも必要。

◎関連事項
《コミュニティの崩壊》
小さな単位の地域コミュニティ(ご近所づきあい)の崩壊は、講師の体験では1970年頃から急速に進み、わずか数年で壊滅状態となった。
=氏神の祭りの形骸化 子どもが外(家の前)で遊ばなくなる など
道路の急速なアスファルト化→自動車の交通量の激増

《子どもが外で遊ばなくなることの弊害》
子供同士の交流の減少
「幼なじみ」グループの消滅

《幼なじみグループの機能》
=成人していくにつれ、そのまま地域社会の基盤となる
=社会性を育む集団(人工的管理下では不可能な部分)

《1970年頃までの幼なじみグループの特徴》
=交流の量が桁外れに多い(ストレスも少なくない)
=小学生と中学生が一緒に遊ぶなど、対象年齢の幅が広い
=基本的には数人の小グループで遊び、時々鬼ごっこなどの集団遊びをする
交流の量が減ったことで、外向型の人が内向型の人の長所を知る機会、さらには内向型の人が自身の長所を知る機会が失われたと考えられる。

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