心の声を聞く
ユングという人は、無意識からのメッセージ、つまり自らの内なる心の声に耳を傾けることを、とても大切にしていた。
ユング派心理療法における、夢分析やアクティブ・イマジネーションは、いずれも、いろいろな深さの無意識からのメッセージを受け取るための方法である。
しかし、心の声を聞くのに、もっと身近で分かりやすい方法がある。もっとも、簡単な方法だとはちょっと言えないが。
それはつまり、ついついやってしまうこと、また反対に頭でやらなきゃと思ってもどうしてもやれないことについて、無理矢理自分に言うことを聞かせようとするのではなく、逆に意識の方をを同調させる、というやり方である。
S.フロイトは、無意識が表面化するときの例として、「失錯行為」つまりうっかりミスという現象をとりあげている。
彼のあげた例とは、「ある会議の議長をつとめることになった人が、開会宣言せねばならない場面でいきなり閉会宣言してしまった。彼はもともと、この会議が開催されることに無意識的に抵抗を感じていたのだ。」といった話である。
深層心理学の大前提と言ってよいのだが、自分が本当のところはどう感じているのか、人間は直接認識できないことが多い。
とくに自己評価の低い人の場合、自らの感情に対しても思考に対しても、また認識の仕方についても否定的なので、その傾向はよりいっそう強まる。
つまり、無意識の発するメッセージを受け止めること対して抵抗が強いのである。
うつや不登校という症状は、これがもっとも典型的な形で現れたものだと言える。
頭では会社や学校に行かなくてはならないと思うが、身体、もう少し正確に言うと心の深い部分が抵抗して、それができない。
また、人はよく、いろいろな場面で「気持ちの切り替えが大事だ」と言う。
これも、私を含むうつ性格の人にとって、もっとも苦手なあり方の一つである。
とくに人間関係の場面でのことが多いのだが、何かすっきりとしないことがあると、あの場面ではもっとこうしたほうがよかったんじゃないか、あの言葉が相手を不機嫌にさせたんじゃないかなどと、自分自身のあら探しが始まると、クヨクヨクヨクヨもう止まらなくなる。
過ぎ去ったことなのに、どうして私はいつまでもそのことばかり考えてしまうのだろうと、自分が考えすぎてしまうことに対してまで、さらにクヨクヨ考えてしまう。
いちおう私の場合、「かつてはそうだった」と言っておこう。
では私の場合、どうやって「ついつい考えてしまう」状態を脱することができたかというと、「ついつい考えてしまう」のではなく、「ガッツリ考える」ことにしたからである。
ついつい考えてしまうことについて、まず言えることは、頭では考えまいとしても、「心は考えたがっている」ということである。
さらに言うなら、単に考えたがっているだけでなく、置き去りにしてはならない何か、今考えておかなくてはならない何かがそこにあるのだと、潜在意識が訴えているということである。
もちろん、答えのなかなか出ないことについて思考するのは、やはりしんどい。
それに、自分と同じように、そんなことをいつまでも考えている人は、少なくとも幼稚園のころから周囲を見渡しても一人もいなかった。
だからこそ、早くこんな思考から逃れたいと思い、考えまい考えまいとしてきたのだ。
たとえば、「蟻に感情はあるのかないのか」といったことでも、一旦気になりだすと、お遊戯をしていても弁当を食べていても、そのことが頭から離れてくれなくなるのである。
弁当を食べ終わるのは、だからいつもビリから2番目だった。
ポーッと考えている間に組の半分以上の子が食べ終わり、もう外で遊んでいるのである。
家族からはよく「ボーッとしている」と言われたが、正直納得はできなかった。
それがどれほど辛いことなのか、彼らに分かっていないことは明らかだったからだ。
納得はできなかったが、しかし劣等感は強かった。
少数派は少数派であるというだけで、常に劣等感の危険にさらされているのである。
そういった思考を止めるための努力は、やりつくしたつもりである。
それでも、どうしても思考ぐせは治らなかった。
ではどうすればいいのか。
思春期になった頃には、私の中で答えは出かかっていた。というより、すでに出ていた。
しかし、それを認めることは楽な人生を諦めることでもあり、なかなか決心がつかなかったのだ。
大学生のとき、あることで知り合いになった年寄りのお坊さんが私のことをずいぶん可愛がってくれ、卒業式の後、自宅での食事に誘ってくれた。
私は自分の「ついつい考える」という悩みについて話したことはなかったが、食事の途中そのお坊さんは唐突に言った。
「松波さん、君、あんまり思い詰めるなと、周りはみんな言いまっしゃろ。そんなん気にしたらあきません。思い詰めなはれ。」
私は「はあ」とだけ答え、話題はすぐに変わってしまったが、私にとってそのやり取りの意味は小さくなかった。
私の中ですでに出ていた答えを、他人の口から聞かされたのだった。
坊さんから言われたのが直接の理由ではなかったが、私が楽な人生を諦めたのは、その前後だったように思う。
つまり、何かにつけて、「俺はもう、とことんまで考えるしかない」と観念したのである。
結果的に、これは紛れもなく自己解放となった。
クヨクヨ思考というのは、「考えても仕方ないのに……」と思いながら考えている状態だ。
そういった思考は、エネルギーが分散してしまうため、意味のある結論に達することは少ない。
しかし、覚悟を決めた思考は、きわめて重要な結論を導き出すことが少なくないのである。
たとえばそれが、「生きる意味について」といった大きな問題であってもだ。
言うまでもなく、逆に頭では考えようと思っても、どうしても突きつめた思考ができない場合もあるはずだ。
私がここで言いたいのは、「考えるのはいいことだ」ということではなく、自らの無意識の衝動に対して最終的にはつき従うこと、つまり自らの意志で、主体的に敗北せねばならないことが多々あるということである。
私の最初の夢の記憶は、4歳くらいの時のものだ。
夜なのか、うす暗い森の中で、怪獣(ウルトラマンに出てきたガマクジラだった)が暴れ、木々をなぎ倒している。
その怪獣が迫ってきたので、私は必死に走って逃げるが、「なんだか変だ。これは夢じゃないか」と思う。頬をつねった。……痛くない。やっぱり夢だ。
夢だと分かれば、もう怖れる必要はないはずだ。
私はとっさに、「よし、口の中に飛び込んでやろう」と思い、逃げてきたのと反対方向に走り、自ら怪獣の口の中に躍り込む。
口の中は真の闇だった。
しかし、頑張れば目が覚ませるかもしれない。そうすれば、はっきり夢だと分かる。
私は、すべての意識をまぶたに集中し、拳を握ってガッと目を開いた。
本当に、布団の中で目を覚ました自分がいた。
私は、自力で危機を乗り越えたことにすごく誇らしげな気持ちになり、親に夢のことを話そうとしたが、あまりに気のない返事をされたので途中で話すのを諦めた。
そのような扱いを受けてはいけない大切な夢であることが、どこかで分かっていたからだと思う。
夢とはいえ、凄まじい恐怖を、生まれて初めて独力で克服したのだから。
この夢の象徴性をあえて解釈するならば、夜の森で暴れる怪獣は、私の無意識そのものであり、その喰らおうとする衝動と強大な力は、私がその無意識の発する欲求に逆らえないことを意味している。
そして私は、その衝動に逆らって不本意のまま喰われるよりも、自らの意志でその衝動を満たしてやる道を選んだということである。
思えば、それから約20年後にたどりついた私の決心は、その時すでに予見されていたと言ってよい。
自らの無意識と良い関係を築き、保つことの大切さ。
それは、動物と信頼関係を築く感覚と、非常によく似ている。
「つながり」というものが否定される現代社会にあっては、これがすごく難しい。