感情とは

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感情

私は小学校の低学年の頃、家のすぐ横の道路脇で、蟻たちの活動を眺めるのが好きだった。

雨が降れば一匹も姿は見えなくなるのに、雨が上がって少し地面が乾いてくれば、蟻たちはたちまち巣穴から這い出し、生き生きと活動を始める。
巣穴には水が流れ込んでいるはずなのに、蟻たちは溺れないのだろうか、その間はどうしているのだろうか、といったことが不思議で、ある日、何10匹もの蟻をバケツの水の中に入れ、死んでいくのを眺めていた。

こんなに小さな蟻でも、死んでいく時には、あらん限りの力でもがく。
死に抵抗する生き物を殺めたことに罪悪感を覚え、その日は家族と目を合わせることすらはばかられたが、その必死の様をもっと見たいという衝動に抗しきれず、しばらくの間、蟻殺しに熱中してしまった。

踏み潰すということは、あまりしなかった。
一番たくさんやったのは、水に浸けることと、天気のいい日に虫眼鏡で焼き殺すことだった。
おそらく、死にゆく時にもがく様がよく見れるからだったのではないかと思う。
蟻たちは、仲間に異変が起きていることが分かると、とにかく大慌てで巣穴に戻ろうとし、捕まえられると激しく抵抗し、もがいた。

殺している当の本人が言うのは変だが、それを見るのは辛くもあった。
辛かったが、自分はこれを見なければならないという気持ちが働き、かえってその行為をやめることも、目を逸らすこともできなかったのである。

今では、ある程度高度な生物には感情がある、というのは当たり前の考えになっているが、当時は、「感情をもつのは人間だけで、だからこそ万物の霊長なのだ」ということがよく言われていた。
しかし、私自身の手で殺されていく蟻たちのもがき方を見て、蟻にすら感情はあるように思えて仕方なかった。
蟻たちは、まちがいなく「死にたくない」と感じているようにしか見えなかったのである。

何かしら生き物の本質を垣間見たように感じ、自分が汚れてしまったようにも、ひとつ大人になったようにも感じられた。

また、高学年になった時、理科の時間に、校庭の池の水を汲んできて顕微鏡で見る、という実習があった。
私は、汲まれた池の水の中に、長さが1ミリほどの線虫を発見し、水滴ごとそれをスライドグラスに載せ、カバーグラスをかけて顕微鏡で覗いた。

わずかな拡大率で、線虫の細胞の一つ一つまでがはっきりと見えたが、線虫はスライドグラスとカバーグラスの間で押しつぶされ、その薄い表皮の一部は破裂していた。
破裂したところからは、線虫の細胞がこぼれ撒き散らされていたが、驚いたことにその線虫は、やはりもがいているではないか。

さすがに単純な生物であるため、全身で痛みを感じている風ではなかったが、破裂した部分を中心に、線虫は「いやいや」をするように、激しく身をくねらせていたのである。
軽いショックを覚えた。

正直言うと、その前後の夏休みには、田舎のいとこの家の近所でかなりの数の昆虫やカエルを、いろいろなやり方で解体したり殺していたから(しかし鳥や哺乳類、つまり毛の生えた動物だけはどんなに小さくても殺せなかった)、小動物の死にはもう慣れっこになっているはずだったのだが。

生物の、危機に瀕した際のこういった反応は、本当に、あくまでも種の保存・個体保存の本能による反応にすぎず、感情とは言えないのだろうか。

私は低学年の頃に見た、蟻の死に対する抵抗を思い出し、また自分自身が突然何者かに捕らえられ、命を奪われそうになる場面や、そのときの気持ちを想像した。
ゴジラに踏み潰されまいと、逃げ惑う人間たちの映像も思い出していた。

少なくとも私の想像の中で、それらの死に対する抵抗の姿は、本質的に同じものだった。

そうしたことを考えるうち、小さな生物にも感情はあるのかないのかよりも、「そもそも感情とは何なのか」という問題に、私の思考は移行していった。
「それは本能であって、感情ではない」と言い張るのならば、感情というものについても完全な説明がなされねばならないからだ。

たとえば人間にとって、かなり高度な感情だと思われる「愛」についても、それが家族愛にしろ恋愛感情にしろ人類全体に対する博愛にしろ、結局は種の保存本能の延長ということで、説明がついてしまうのではないか。

小学生の私にとって、それはかなりスリリングな考えだった(種の保存という言葉を知っていたかどうかは分からないが)。
背徳、禁断の思考をしてしまったのではないか、という恐れのためである。
しかし、思考は止まらなかった。
いや、止まらなかったというよりも、止めるわけにはいかなかった。
恐怖を覚えた自分に打ち勝たねばならないと、本能的に感じたのである。

今から考えると、そうした一見ヒューマニスティックではない思考は、凄絶なまでに厳格だった私の母がもっとも嫌うことであり、私の恐怖の直接的な対象は母であったのだろうと思う。

それはさておき、結論として、やはり私は今日にいたるまで、種(自己)の保存の本能と感情とは本質的に区別できないものだと考えている。

蟻たちは、私の怪獣的な行動に出会うと、かわいそうな仲間を残してみな姿を消したが、しばらくするとまた巣穴から出てきて、死んだ仲間の死骸を、何事もなかったように巣穴に運び入れていた。
タンパク源となったのであろう。

ヒューマニズムの立場からすれば、冷淡とも言うべき行動である。
しかし、人間はそのような行動をとっていないと、本当に断言できるのだろうか。
ある企業の、自殺者が続出している部署の上司が、日曜ごとにゴルフに興じているといったようなケースを、どれほど耳にすることか。
彼らは、どれほど言い訳しようと、間違いなく他人の生を搾取し、搾りきっては死に追いやり、それを自分のせいだとは感じていないのである。因果律を理解すべき統合性の欠落だ。
仲間の死骸を栄養源とする蟻よりも、はるかに恐ろしい。

一方、うちで飼っている金魚の一匹が死んだとき、それから何週間もの間、ずっと一緒に育ってきた仲間の金魚たちに、明らかに元気がなかった。
不健康というほどではなかったが、餌の量までが減った。
死んでいた朝などは、生き残ったうちの一匹はパニックを起こしたのか、鼻先に大きな痣までこしらえていた。

見ている人間が、自分の感情を投影しているに過ぎないと、平均的な心理学者は言うだろう。
しかし、彼らを毎日見つづけてきた者としては、明らかにその雰囲気の異様さが分かる。
矛盾するようだが、彼らは「悲しみ」という意識の様式を持たないだけで、やはり「悲しい」のではないかと思うのである。
それどころか、「喪に服す」という文化的儀礼の本質まで、見る気がする。

人間は、人間自身が考えている以上にずっと、他の生き物と本質的に変わりはないと思う。

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