ここでは、「カウンセリング」という用語の説明ではなく、おもに幸朋カウンセリングルームのカウンセリングの特徴について、少々詳しくご紹介いたします。
黙ってお話を伺うタイプのカウンセリングではありません
日本でカウンセリングと言うと、カウンセラーは自分の考えを一切差しはさまず、受容・共感的態度でもって無条件にクライアントを肯定し、クライアントはただ黙って話を聞いてもらうことで、不思議にも自然と回復に向かう……、こういったイメージが主流なのではないかと思います。
ご存知の方も多いと思いますが、これはアメリカの心理学者カール・ロジャーズが創始した「来談者中心療法」が主張する、理想的なカウンセリングのイメージそのものです。
そして実際、このイメージをそのままに実行しようとするカウンセラーは、少なくとも日本のカウンセラー全体の半数ほどを占めるほどではないかと推測します。
ただ、当ルームでは来談者中心療法を含む自らの実践経験から、こうした「ただ黙って話を聞く」というカウンセリングの方法は、あまりにも現実離れしていると考えています。
日本人はもともと昔から、「話を聞いてあげる」という態度を重視する傾向があり、それが見事にロジャーズの考えと一致してしまったので、あまりにも無抵抗にそれを受け入れてしまった結果ではないかと考えられます。
ちなみに、ロジャーズ自身を含むアメリカのカウンセラーで、そこまで徹底して黙って聞くだけの人は、まずほとんどいないようです。
ひょっとすると、日本とは違い、アメリカのように自己主張しすぎるきらいのある国柄のカウンセラーにとっては、ロジャーズの考え方はブレーキになってちょうどよかったのかもしれません。
実際にカウンセラーがまったく自分の見解について語らないと、クライアントから見えるカウンセラーは「いったい何を考えているのか、さっぱり分からない人物」ということになります。
しかし人は、本質的には何を考えているのか分からない人が苦手です。そのような人とは、精神を支配されることはあっても、本当の信頼関係を結ぶことができないからです。
そうした点を踏まえ、当方では何らかの気づきや知識・見解があれば、クライアントの方の許容力の許す限り、速やかに余さずお伝えするようにしています。
ちなみに私たちの、人間の深層心理に対する考え方は、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングの心理学を基本としており、それを自らの臨床経験により、日本人の特性に関する知見を加味するなどして、独自に発展させています。
取り巻く人々の分析
当方のカウンセリングにおいては、家族や職場の同僚、同級生など、クライアントを囲む人々の性格・行動様式などの分析が、ある程度大きなウェイトを占めます。
というのは、うつ・パニック障害・社会不安障害・摂食障害など、現代を代表する精神疾患のほとんどのケースにおいて、周囲から不当な形で劣等感を植え付けられてしまった側面があるからです。
うつやパニック障害などの精神疾患を乗り越えるプロセスにおいては、ただ当人の内面の分析にばかり集中しすぎていては、かえって劣等感を強めるばかりで、一歩も進めなくなる段階があるのです。
自分が小さく思えてしまうという心理の裏側には、他者が実際よりも大きく見えすぎているという面があることを、知っておかなくてはなりません。
社会性の成長を目指す
当ルームのカウンセリングのもう一つの特徴は、社会性、つまりその人の他者と関わる能力や技術についての分析と、その成長にかなりの力を注ぐ点です。
メインブログ『うつ−自分にうそがつけない人たち』で多く記事を書いておりますが、現代人の心の病には、直接的・間接的に「現代人の社会性の低下」という問題が少なからずかかわっています。
カウンセリングという技術は、日本では1980年代頃から、急速に世の中に認知されてきました。
それは必ずしも、新しい技術が発見されたという、単に喜ばしいばかりのできごとではありません。
何かが崩壊したために、それまで必要がなかったカウンセリングという方法が、必要とされる時代になってしまった、という側面もあると考えるべきです。
では、いったい何が損なわれたのでしょうか。
一言でいうと、「コミュニティ」であると、考えます。
昔のご近所づきあいや親戚づきあいがどのようなものであったのか、もはや都会では50代以上の人でないと知らないことですが、それらは、ごく幼い頃から、様々な年齢や性格や職業の他人と、盛んに触れ合う機会を与えてくれるものでした。
これらが崩壊したことで、人がサルとして群れ生活を始めて以来、数100万年もかけて進化し培われてきた高度な社会性は、次世代へと伝えられなくなり、また子どもたちが集団遊びをできなくなったことで、実践的に社会性を学習する機会も激減してしまったのです。
社会性を失った人がうつになる、ということではありません。
もちろん、うまく人と関われないため、孤独に陥り自己評価が低下して、うつに罹患してしまう側面もあります。
しかし現代社会では、どの人においても同様に社会性が低下してしまったので、個性的な人が集団に受け入れられなかったり、周りを気づかう傾向の強い人(つまり本来は社会性の"高い"人)が、その人柄の良さを利用され、傷つけられるなどして、うつになってしまう場合が少なくないのです。
これは、本人に問題があるというよりも、ギスギスとした集団のしわ寄せをこうむった結果であると考えなければなりません。
したがって、現代社会では、ただ穏やかに周りと関わっていく方法だけではなく、ある意味「かわす技術」や「戦う技術」すらかなり必要とされます。
卑怯に身を堕することなく、また自らの尊厳を失うことなく、それでいていかに力強く周囲と関わり生き抜いていくか、その道を見出す上で、戦う技術やかわす技術を含む社会性を養うことは欠かせません。
カウンセリングが長く続くことを、必ずしも良いことだとは考えません
多くのカウンセラーが陥りがちな、間違った常識の一つに、「カウンセリングが長く継続することは、いいことだ」という考えがあります。
クライアントの方々からすれば、「そんなのおかしいじゃないか」と言いたくなる方は当然多いはずですが、それをクライアント目線でカウンセラーが理解するというのは、意外にも難しいことなのです。
たしかに、1〜2回目のカウンセリングで、カウンセラーがあまりに頼りなかったり高圧的だったりして、クライアントが再び行く気になれないという気持ちになった場合、それは質のよくないカウンセリングだったと言わざるを得ません。
また反対に、目の前の問題克服以上の「生きる意味の探求」といったことが問題となっているケースなどは、たしかに長期間を要します。
さらには、すでに問題は乗り越えているけれど、時々ものごとに迷ったりしたときにカウンセラーのもとを訪れてブレを修正するといった、何10年もの長いお付き合いになるような、非常に質のいいカウンセリング関係も存在します。
しかし反面、カウンセラーがはっきりとものを言わないために、クライアントが何の手応えも得られず、そのためかえって、延々と10年以上も通い続けさせられてしまうカウンセリングが多く存在するのも、また事実です。
こうしたカウンセリングは、1〜2回で中断してしまうケース以上に悪質であると言わざるを得ません。
つまり、カウンセリングは、必ずしも長く続けばいいというものではないのです。
一般的にカウンセリングの料金は決して安価とはいえません。
ましてやクライアントが、そのカウンセラーに「いつかはきちんと答えを与えてくれるはずだ」という期待を持ちながら通い続けていたとしたら、その長い年月と莫大な費用は、まったくの無駄だったということになります。
さらには、そうした依存的な関係は、かえってクライアントの劣等感を強めてしまうなど、深刻な2次被害をもたらす面もあります。
基本的に当方のカウンセリングは、いわゆるブリーフセラピーやコーチングと呼ばれる短期療法、またいわゆる指示的心理療法(認知行動療法など)とは異なり、現実的な問題解決だけに焦点をしぼる訳ではなく、緻密な心理分析を土台としていますが、時間的にも費用的にも、できる限り無駄を省くことを心がけています。
それは単に節約という理由からだけではなく、意味のないやりとりを極力排除することで、その人のたどるべきプロセスが、より明確なものとして浮かび上がってくるからです。
ただ、無駄のないしっかりとしたカウンセリング・心理療法を望まず、不満を聞いて欲しいだけの方に、私たちの価値観を押し付けることになっているケースなども、ないとは限りません。
そこで、来談される方々にお勧めしたいのは、私たちのことも含め、「ああ、このカウンセラーとは合わないな」と感じたら別のカウンセラーを探されることです。
そのことは、カウンセラーに告げてもよし、言いにくければ告げなくてもいいと思います。
一昔前でしたら、様々な医師やカウンセラーのもとを訪れる行為を「ドクター(カウンセラー)ショッピング」と呼んで、治療者たちは敬遠していた面がありますが、カウンセラーもいろいろですので、セカンド・オピニオンを求めるのに、あまり迷う必要はないと思います。
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