大阪の幸朋カウンセリングルーム・記事集

記事集:専門用語が苦手なのだ

専門用語が苦手なのである。

心理学者のメラニー・クラインのことを、「カルバン・クラインがね……」と言い間違えて同業者に笑われたり、クライアントにADHD(注意欠陥多動性障害)のことを説明するのに、終始「ADSLっていうのは……」と言い続け、あとで赤くなってしまったりと、そんなことがちょいちょいあるのだ。

先日、久しぶりに同業者と飲む機会があった。
非常に博学な方ながら、あまり専門用語を使われないところが好感が持てたのだが、それでも会話をするため(先方にすれば)最低限の専門用語は必要なので、いちいち思い出すのに少し苦労した。
「最近流行りの用語については、クライアントの方から初めて聞くことも多いくらいで……」などと言い訳したが、まあそうしたことが恥ずかしいと感じたのも10年くらい前までである。

私にとっては、たとえば医師と連携するときに紹介状でやり取りしたり、クライアントに症状の説明をしたり、書き物で特定の心理学理論のことを取り上げたりする時に、ある程度専門用語とその背景の知識は必要なのだが、それが実質的にカウンセリングで役立つと感じることはほとんどない。

かつての私にとっては、多くの理論が、人の心理を考え研究する上でのきっかけ・叩き台になったことは確かなのだが、今は自分の目で正確に見て自分で思索するほうが、はるかに早く確かな考えに達すると実感しているのである。
それどころか、習ったことが固定観念・先入観となり、大切なことに気づくのが数年遅れてしまった経験さえある。

専門用語には一種の魔力がある。
ある概念を魅力的な表現でひとたび専門用語化してしまうと、その概念の背景にある理論はかなりいい加減なものであっても、さも当然の前提であるかのような印象で装われてしまうのである。

それはまるでキャッチコピーのようなもので、ウケさえよければ、わけが分からないのにその理論は広く受け入れられ、ひどい場合には権威までまといはじめる。
言葉とは、単に意味を伝えるばかりでなく、印象を植え付ける機能を持っていることを改めて感じさせられる。

また、カウンセラー同士が専門用語ばかり使って意志を疎通しようとした場合、「あなたは(認知)行動療法ですか?」と聞かれ、「いいえ」と答えると、「あ、非指示的心理療法なんですね」などと、まったくもって奇妙な会話になってしまうこともある。

指示するべきでないときは指示しないし、その必要があるときにはそうするに決まっているのだが……
まあそれは置いたとしても、「あなたは指示的心理療法をするのですか?」と聞かれて、「いいえ」と答え、「あ、非指示的心理療法なんですね」と言われるならば、まだしも筋は通っている。

行動療法と非指示的心理療法が、いつの間にか対立概念になってしまっているのは、それ以外の心理療法が存在しないと思われているからで、なぜ存在しないと思われているかと言うと、それに該当する特定の領域を示す専門用語が、今のところとくに存在しないからだ。
これなどは専門用語の独り歩きの典型例といえるだろう。

また、いかにも権威のある印象を与えるのに、最近ではアルファベットによる表記が流行なのだが、正直もうやめてくれと思う。

アダルトチルドレンのことをACと言われたとき、私は本当に「公共広告機構?」と思ったものだが、それはさておき、「アダルトチルドレン」という概念自体、かなり広範に知られていながらはなはだ曖昧さを含んでおり、何らかの症状を説明するのにとうてい正確であるとは言えないものだ。
それは「機能不全家族」という考えを前提としているが、そもそも「機能"完全"家族」などというのは原理的にあり得ない。
つまり、どの道すべての家族は相対的に不全であるため、不全であるかないかを線引きをするには、あまりにも主観による部分が大きすぎるのである。

ともあれ、やたらアルファベット表記の用語がはびこると、臨床心理学の専門用語からは人の言葉という色合いがますます薄れ、より記号的となる。
ひいては心理学や精神医学という学問自体いかにも機械的に感じられ、人間を理解するためにはまず無機的な感覚と態度が必要であるかのような、妙な印象が強くなってくる。

たしかに主観や希望的観測、曖昧さを排除しようとすると、言葉の厳密さは度合いを増し、知識のない人には理解しにくくなる。一般の人が、哲学書をなかなか読めない理由だ。
だがしかし、それは言葉が温度を失うこととは違う。

無機的な専門用語を使うだけで、あたかもその意味や背景にある理論を科学的に理解した気分になる面が強いことを考えると、よほどそのほうが主観や印象に強く支配されていると言わざるを得ない。

あの記号的な表現、いい加減やめてくれないかなあ……

記事集の目次へ

HOMEへ