古武術家の甲野善紀氏の勧めで、明治期に始まったある宗教の教祖伝、『大地の母』を読んだが、実に面白くまた深いところが刺激された。
ただ深いところが刺激されるといっても、今のところ宗教観が刺激されたというよりも、むしろ明治年間の農民・庶民の生活や人情の生き生きとした描写と、また、それほど特別なことでもなく、人に狐や狸やどこそこの神様が憑いてしまうなど、自然と不可分の人々の生活・心性に、情緒の刺激されるところが大きいのである。
また、当時の貧しい人々が(というよりも、今の人々の暮らしぶりからすると、物量という意味では平均して貧しかったわけだが)生活の糧を得るため、物思いにふける間もなく馬車馬のように働くありさまに、ある部分では懐かしさのようなものを覚える。
もちろん、私は明治時代の農民のような生活を経験したことはない。
ただ、私が幼かった頃には、この小説の描く時代の雰囲気を残した人々が周りに大勢いた。
その中には、口の悪い人やぶっきらぼうな人、いやに横柄な人もたくさんいるにはいたが、どことなく現代の人々にはない、ある種の安定した善良さや朴訥(ぼくとつ)さがあった。
たとえば、噂話が好きな代わりに、近所の誰かが困っていれば助けてやらなければならないということに、そういった人のほとんどが一点の疑いも持たないような、安定した社会性の感覚を持っていたのである。
この小説を読んでいると、彼らの持っていた雰囲気が思い出され、日本人としての深い場所のどこかが疼いたり、あるいはフワッと緩んだりする。
そういえば、渡辺京二著『未踏の野を過ぎて』を読んでも、まったく同じ部分が刺激された。
一応断っておくと、私はその宗教とはまったくの無縁である。
しかしもちろん、その宗教のことも、教団信仰そのものも否定するつもりはない。
宗教教団は確かに、かなり多くの人々にとって、必ずしも思考というプロセスを経ずして自らの存在をこの世に位置づける思想・信念の体系であり、営みであり、奇跡の場である。
そういった点において、教団というものがどうしても必要なものであることは否定するわけにいかない。
個人的な宗教観としては、無神論でもいいが、安易に他人の信仰を否定するのは好ましくないというほどの認識を持っている。
ともあれ、今回は信仰について述べるのが目的ではない。
明治生まれの私の父方の祖母は、福井県の農家出身の人で、『大地の母』が描くような古い日本の匂いをぷんぷん漂わせる人の一人だった。
祖母は、長男である私の父の家族と同居していたので、もちろん私も、生まれてから大学時代に一人暮らしを始めるまでの約19年間、ずっと同居していた。
祖父と結婚して以来、戦後の貧しい時代を含めて、専業主婦以外は経験したことのない人である。
少なくとも私が物心ついた頃には、すでに彼女は耳が遠く、家事はどれ1つとっても雑だったが、しかしパワフルで家族の誰よりも人情家であった。
彼女の言動の雑さについて例をあげると、わが家に欠けていない茶碗はなく、またよく割れたものだ。
落として割るわけではなく、彼女が普通に食器を洗うだけでどんどん食器が欠けたり割れたりしていくのである。
耳が遠いせいもあったのか、彼女が食器を洗うとまるで「怒っているのか」と言いたくなるほど、出す音がガチャンガチャンと派手だった。
また、私が育った家の壁はほとんどが塗り壁だったが、畳から3~5センチ上の部分はすべてえぐれて下地がむき出しになっており、壁土の刻み藁がヒョロヒョロ飛び出していた。
祖母が掃除機をかけるとき、ガンガン壁に当てるからである。
ケチャップやマヨネーズを使い終わると、そのしぼり口をペロリと舐める。
私が見咎めても、「知らん!やらしい子や!」と開き直る。
小学生の頃、ある夏の夜大きなゴキブリが出て、祖母に「取って!」と頼まれた私がスリッパを片手に近寄ったところ、突然そいつが私の顔めがけてブーンと飛んできた。
しかし、後ろにいた祖母が「イヤー!」と私を押したために、私はかわすことができず、首を前に下げたところそいつは襟首からパジャマの中に飛び込んだ。
パジャマの中でゴキブリが背中を走り回るものだから、私はワーワー叫びながら走り回ったが、祖母もまたワーワー言いながら「やめろー、やめろー!」と言う私の背中をバンバン叩く。
あろうことか、祖母は私のじかの背中の上でそいつを叩き潰すつもりなのである。信じられない。
私と祖母とゴキブリと、3者同時にパニックだ。
しかしゴキブリはかろうじて難を逃れ、私のパジャマの裾からどこかへ飛んでいった。
あとで家族に話すと、涙を流して笑われた。
また、彼女は盗み酒が好きで、中学高校の頃の私はよくその相手になった。
他の家族がいないとき、するめがあればその端っこをちょっとちぎって炙ったり、何もなければ出汁雑魚(だしじゃこ)を数匹甘辛く炒めたりして、誰もいないのに声をひそめて「ちょっおいで」と私を誘い、わざわざ台所の隅で、2人で父の取って置きの日本酒をほんの少し、冷やでちびちびやるのである。
私は顔に出ない体質なのでばれることはなかったが、祖母は目の周りだけが赤くなるたちで、家族から「お婆さんまた狸みたいな顔しとるがな!また飲んだやろ!」と笑われても、「知らん!」と白を切っていた。
初めて覚えた酒の味のせいだけではなく、後に一人暮らしして当たり前に飲むようになった酒よりも、婆さんと2人で「へっへっへっ」と飲む隠れ酒のほうが、なぜか格段にうまかった。
祖母とはよく喧嘩もした。
私は何か物をこしらえるのが好きで、よく机の上に作りかけの物を置いていたが、途中で触られるとわけが分からなくなるので、学校に行く前「絶対に触るなよ!」と祖母に念を押した。
だが、まずそれが守られたためしがなかった。
机を拭くのにすごく雑な片付け方がしてあるのである。
「何で触んねん!」と抗議しても「知らん!」と言う。
「ほかに誰が触んねん!」とさらに言えば、「やらしい子や!」と返す。
何事につけ、事実も認めなければ非も認めないので、とにかく私はよく怒鳴り散らした。
9人の子を産み育ててきた人なので、子どもに対する扱いも雑だった。
幼い頃で言えば、風呂から上がると、まず髪の毛がちぎれんばかりの勢いで頭を拭かれる。
そして身体の前を激しく拭き終わると、両肩をつかんで独楽のようにくるりと回され、また叩くようにして後ろを拭かれる。
私は、ただしばしの苦痛に身を任せるばかりである。
テレビでたまたま面白いシーンがあると、なぜか隣にいる私の腕や背中をバン!と叩いてから笑うが、その力が異常に強い。
目にごみが入ったと言うと、いきなり頭をつかまれ、「うわーっ」と叫ぶのを意にも介さず眼球をベロリと舐められる。
……等々、現代的な感覚でいえば、とにかくやることなすこと粗雑で、思慮・配慮というものからは無縁の人のように見え、愛情などというものもあるのかないのか直接にはよく分からなかった。
だが、やはり長らく時を経てみると、彼女は自分なりに楽しむことを知っており、また私をはじめ、家族はみな彼女から愛されていたことがはっきりと分かる。
どの家族のどこが好きだということではなく、お婆さんだからという理由で、当たり前のように子どもや孫を愛していたのである。
おそらくそうした家族のありようは、親が子に頭から頭へと伝えたものではない。
地域社会全体において皆が馬車馬のように働きつつも、ふとしたくつろぎや楽しみの共有がある生活の中で、子供たちは大人たちの姿を見つつ、自発的に集団で過ごしつつ遊んでいた。
そうした家族や人間づきあいのありようは、大勢の大人から大勢の子どもへと伝えられると同時に、経験的にも学習したものなのであろう。
身体から身体に伝えられていたと言ってもいいのかもしれない。
日本人は家族に対して「愛している」という言葉を発しにくいし、褒めないし、抱きしめるといった愛情表現も苦手である。
それは、単に家族愛が薄いとか表現が下手というよりも、当たり前のように身体の隅々まで染み込んでいるつながりの感情、漠然としつつも確かな信頼を、ことさらに「愛情」と名づけて抽出し表現することに、違和感あるいはむしろ稚拙さを覚えてしまったからではないだろうか。
そうした家族関係のありようは今日では変化してしまったが、やはり名残りはあるのだと思う。
今日では、そうした身体から身体へ、大勢から大勢へと何かが伝えられる自然発生的システム、地域社会や大家族といったコミュニティの構造が、見る影もなく破壊されてしまっている。
いや、消失したと言うべきか。
したがって、直接的な愛情表現が苦手だなどと言っていては、今やいい家族関係を作ることは難しい。
かなりはっきりとした形で、そうしたものを作る努力をしなくてはならないのである。
しかし、このように小さな地域社会すなわち近所づきあいが崩壊したままで、どこまでもいけるものだとは到底思えない。
実際、今日うつや社会不安障害を訴えるケースにおいては、その当人のみならず、症状の原因となった家族や職場の同僚においても、基本的な人間関係の感覚がひどく薄っぺらになってしまっている。
つまり、自分とは異質な人間を受け入れるキャパシティーが皆極端に小さくなっており、そのため多様な人間模様が展開できなくなっているのである。
かく言う私においてすらやはり現代社会に生きる者なのだから、歪んでしまっている部分はかなりあるだろう。
カウンセリングでは、家族に対する今日的な愛情表現や配慮について助言することは、当然ながらある程度までは可能である。
しかし、地域社会そのものを再生することはできない点に、はっきりとした限界を感じざるを得ない。
これは、すべての日本人が必ずクリアしなければならない課題であると私は思う。