1990年代頃から、カウンセラーを志望する若者が急激に増加した。
おそらく、もっとも大きなきっかけは、1995年1月の阪神淡路大震災だったのではないだろうか。
被災者の人々がこうむった心の傷に対して、初めて「こころのケア」という言葉が用いられ(最初に口にしたのは皇后陛下)、臨床心理士なる人たちの存在と活動がメディアでも大きくクローズアップされたのである。
またその同じ月、東京ではオウム真理教によって地下鉄サリン事件が引き起こされ、さらにその2年後には、少年「酒鬼薔薇聖斗」による猟奇的な児童殺傷事件が起きるが、メディアはそのたびに臨床心理士の活動に言及し、その社会的存在感を高めるのに拍車をかけたように思う。
だが、これらの天災や事件ばかりが、カウンセラーという職業に対する世の関心を集めさせたとは言えないだろう。
これらは確かに未曾有の出来事ことではあったが、大きな天災や世を震撼させる事件は、それまでにも数限りなく起きていたからだ。
この時代だからこそ、カウンセラーという職業人が役割を期待されたという、もっと根本的で本質的な理由があったはずである。
では、それは何なのか。
まず、それまで社会において一定の役割を果たしていた、何らかの機能が損なわれたために、その代わりとしてカウンセラーという職業がクローズアップされたと考えるのが順当だ。
カウンセラーよりも古く、カウンセラーのような役割を果たしていた人々…… これはいろいろ考えられる。
占い師、学校の先生、お寺の和尚さん、飲み屋のおかみ、喫茶店のマスター、会社の上司、近所のご隠居さん、近所の世話好きのおばちゃん……などなど。
このうち、学校の先生や会社の上司、占い師や飲み屋の店主などは、そう大きく基本的な役割は変わっていないとしても(実際はそうとも言えないが)、お寺の和尚さん・ご隠居さん・近所のおばちゃんなどは、たとえば昭和の頃と今とを比較するならば、かなり社会的な立場が変わってしまったと考えていいように思う。
要するに、地域の相談役を果たしていた人々の役割がかなり小さくなった、というよりも、そもそも接する機会自体がなくなってしまったのではないかと思うのである。
では、これらの人々が、かつてはカウンセラーの役割を果たしていたと言うと、「我々の専門性を見くびってはいけない」と怒り出すカウンセラーは無数にいる。
だが私は、人生の先輩であるこういった人々の、人の世の機微をわきまえたアドバイスは、何の見立ても自分の考えも明らかにせず、「ただ聞く」というスタンスに身を隠し、安全な場所から一歩も出ようとしないカウンセラーの、いわゆる集中的な心理療法よりも、はるかに意味のある場合が少なくなかったはずだと考えている。
さらに言うならば、相談する者とされる者は、長きにわたる顔見知りであるため、多くを語らずともお互い細かい性格や背景までが知れてしまっている間柄である。
重大なことを相談する時点で、すでに相手にかなりの信頼もおいていることになる。
だが、私がここで言いたいことは、かつての地域の相談役だったこういう人々と、現代のカウンセラーとの相談能力の比較ではない。
彼らを含む地域社会、つまり、かつてはごく当たり前に行なわれていた「ご近所づきあい」の世界においては、そもそもほとんどカウンセリングの必要性すら生じなかったのではないか、と言いたいのである。
私がこのように感じるのは、とくにうつや人格障害の人の、歪んだ家族関係を見てきたことなどによる。
たとえば、親の言うことはたとえどれだけ独善的な内容であっても、家の中ではあまりに絶対的に見えてしまう。
具体的に言うと、子どもが正当な主張をしているにもかかわらず、「そんな屁理屈こねるのはあんただけや」と大人である親に言われてしまうと、そのように思い込まざるを得ない、といったことである。
「ご近所づきあい」、とくに下町でのそれは、まずもって互いがオープンであることが前提だったと言える。
衆人環視の中、つまり複数の第三者の目を意識している状態においては、当然ながら人は独善的な言動はとりにくくなるのである。
長屋であれ一軒家であれ、家の前には各家庭の奥さんの好みの植木鉢が並べられていたり、子どもがいれば三輪車があり、家族すべての洗濯物もどこかに見えていた。
また、出前の鉢が置かれていたりもする。
何よりも、基本的に家の玄関は、冬以外は開け放たれたままである場合が多かった。
これらの各家の玄関の情景は、ご近所に住む人同士が、お互いのリアルタイムの状況を知るための、第一の情報であると言ってもよかった。
もちろん、視覚的情報ばかりでなく、臭いや音も情報として含まれることは言うまでもない。
お互いに今晩のおかずなどは、わざわざ言わなくとも臭いで知れてしまうのである。
つまり、かつて「ご近所」という世界の中では、みな我が家の生活は周囲に知れているという意識を、当たり前に持っていたのである。
その対極にある状況とは、現在の集合住宅での生活だ。
大部分の集合住宅では、自分の好みのドアに付け替えることも、表に植木鉢を置くことも、ベランダの手すりに布団を干すことさえ、「景観の悪化」という理由で禁止されている。
つまり、家族の生活感や個性を表に出すことは、ほとんどすべて禁じられているのである。
住む人自身にとって景観の良し悪しはそれほど関係ないし、それどころか生活感が感じられると安心させられる面もあるほどだ。
なのに景観を優先するということは、これは不動産業者サイドの事情以外の何物でもない。
人間は、一般に何を考えているのか分からない他人が苦手であり、反対にあけっぴろげな人には親近感を覚えやすいし、安堵感も覚える。
昨今では、あけっぴろげな人にむしろ侵入感を覚えると反論する人もいるだろうが、それは、今の世の中であけっぴろげにしていることが、奇異なことであるという先入観による感覚だ。
しかし本来は、自分の家庭・家族のことを周囲が正確に認識してくれているという意識は、情緒的な安定をもたらすはずなのである。
なぜなら、人は自分のことを、まずは他者の目に映る自分の姿を見ることによって知るからである。
「自分のことが分からない」と訴える若者が増加しているが、それは、他者(動植物を含む)との親密で有機的な関係が失われていることを意味していると言ってもよい。
近年ますます増加し、かつ重症化しつつあるといわれる境界性人格障害の人は、何よりも人の誠実さに妄想的な疑念を抱き、他人の誠実さを試す(結果的には揺るがす)ような言動を繰り返してしまう。
つまり、人間不信の根がきわめて深いのである。
不安神経症、パニック障害の人もそうであるが、この人たちは、「周囲の人間が何を考えているのか分からない」という状況に振り回されている面が大きいように思う。