以前このブログで、私のうつ体験について書いたとき、インディアンのシャーマニズム(呪術的民間信仰)について詳しいある人が、「先生の体験って、シャーマンのイニシエーション(呪術師になるための通過儀礼)そのものですね」と話してくれた。
これはかなり嬉しかった。
一見ひどかった私の体験を、単なる病的な体験ではなく、意味のあるプロセスと捉えてくれたからだ。
私自身、シャーマニズムには興味、というよりもぜひとも知っておきたいという思いがあり、何冊か本を読んだりもしていたのだが、はっきりと自分の体験に重ねてみたことはなかった。
しかし、そう言われてみれば、自分ばかりでなく、うつの人のカウンセリングをしていても、自然とシャーマニズムについて話すことが少なくない。
どうやら私の目には、うつの人々とシャーマンとが、重なって見えることが多々あるらしい。
一体なぜそうなるのか、話の流れなどを具体的に思い出し、考えてみた。
ごく簡単にシャーマンについて触れるが、記述がちょっと正確でない部分もあるかもしれない。
興味のある方はご自分で調べていただくということで、お許しいただきたい。
シャーマンは世界各地、特に古くから続く文化を踏襲している地域においてより多く存在し、日本語では「呪術師」あるいは「巫師(かんなぎ)」と訳される。
多くはトランス状態に入り、神の言葉を伝えるという職能の人々のことである。
日本で代表的なものとしては巫女があげられるが、現在なお実質的な影響力を持つ人々としては、沖縄周辺の「ユタ」や青森県の「イタコ」がよく知られている。
青森県の「イタコ」の場合、視力障害を持つ人などが、その職能を身につけるために厳しい修行を行い、その立場を獲得する。
しかし、沖縄地方の「ユタ」の場合、一部の例外を除き、それまで一般人として生活していた人が何らかのきっかけで一種の精神病様状態「カミダーリ(神障り)」に陥り、それを克服する中で、自らの「ユタ」としての能力と天命に目覚めていくという経緯をたどる。
日本のシャーマンが、どのような心理学的プロセスをたどるのかについては、正直詳しくはないのだが、イニシエーションにおいてシャーマンがたどるプロセスについて、井上亮(故人)という心理学者から聞いた話がある。
氏は大学に助教授として在任中、海外留学先を決める際、周囲の驚愕をよそにさっさとアフリカはカメルーンの呪術師のもとに留学することを決め、一定の期間を経て、実際に呪術師の資格を得て帰国した人で、さほど口数は多くないが非常に魅力的な人物であった。
シャーマニズムの心理学については、何冊か書物も著しておられる。
私がまだ大学院に在籍していた頃伺った話なのだが、シャーマンになるためのプロセスの中では、いくつかの課題を克服せねばならないという。
中でも、特に私の記憶に強く残っているのは、「孤独」と「恐怖」の克服である。
氏自身も、「恐怖」の克服こそがもっとも大きな課題であるとして、通過儀礼の中心に位置づけておられたように思う。
シャーマンの通過儀礼においては、「恐怖」の対象は単なる観念ではない。
戸のない小屋で、夜一人で睡眠をとることを命じられ、ベッドに横たわっていると、黒豹が小屋の中に入ってくるというのである。
この黒豹はある大きな存在の化身らしく、たしかに実体ではあるが、普通に自然の中で生活している生きた黒豹とは違うようだ。
通過儀礼を受ける者は、これから逃げてはならないし、起き上がってもならない。
氏が儀礼を受けていた際、姿は見なかったものの、確かにこの黒豹が小屋に侵入してきた気配があったということである。
これまで自分が生活していた日常の世界から、未知の異世界へと通路が開かれていくとき、夢や物語の中では、異世界を象徴する存在は、しばしば獰猛な動物的性格を帯びる。
以前、このブログで『こぶとり爺さん』の解釈を試みたことがあったが、爺さんが最初に見た異世界の姿もまた、異形の鬼(妖怪)どもの宴であった。
そして、やはりこの爺さんも、「鬼に食われてもよい、わしは踊るのだ」という形で、恐怖を克服したのである。
ごく普通の人の場合でも、外部からの圧力によって表現することを妨げられた感情は、「怒り」という様相を帯びる。
それは、檻に閉じ込められた、あるいは鎖につながれた獣が、怒りのためにより凶暴になるというイメージに似ている。
異世界も異世界への通路も、潜在的にはとっくに存在していたのだが、ただ人の側にそれを受け入れる準備ができていなかったために、意識の向こう側に閉じ込められていたに過ぎない。
もう20年ほど前の放送だが、NHKスペシャル『脳と心』の最終章「無意識と創造性」に、宮古島のユタである、根間ツル子さんという女性が出演しておられた。
現在はDVD化もされているということなので、興味のある方にはぜひお勧めしたい。
先に述べたユタの例に漏れず、彼女もまた離婚という節目をきっかけに精神病様状態となり、他のユタのもとを訪れて「この人はユタになる人だ」と見抜かれたのだという。
都会であれば、「精神病」あるいは「人格障害」と診断され、薬漬けにされるしかない状態だ。
根間さんに初めて神がかりが起きた頃、ある一つのことが強く訴えられた。
番組では、当時の神がかり中の根間さんの肉声が放送されていたが、まさに壮絶なまでの叫びであった。
「ああ私が悪かったぁー!…………何としてもこの井戸を、これだけは、これだけは頼みます……!」
と、すでに使われなくなり、埋もれてしまっていたある井戸を再び掘りなおすことに、強く執着したのである。
根間さんは実際にこれを実現し、そしてユタとなった。
万物の根底にある地下水脈、地下世界という異界と、この世とをつなぐ通路。
根間さんの魂、あるいは宮古島の人々や自然の魂にとっては、それがその井戸だったと言えるだろう。
不遜を恐れず言えば、私のアスファルトに対する嫌悪感も、同質のものではないかと感じる。
この場合、「井戸は、単に象徴に過ぎない」と言うことはできまい。
心理的に大きな何かを乗り越えるというのは、単に「心の持ちようを変える」というのとはまったく次元を異にするのである。
うつという病を乗り越えるにも、まず例外なく、ある現実との実際の闘いなくして遂げられることはない。
だから根間さんも、実際に井戸を開通させねばならなかったのだと思う。
万物の根底にある地下世界のイメージによって表現される領域を、ユング心理学では「普遍的無意識」と呼ぶが、ユング自身もまた、当時ヨーロッパを席巻していたフロイト心理学と袂を分かった後、精神病様状態をともなう極度のうつを経験している。
そののち、ユングはこの考えを体系化するに至るのだが、彼もまた、フロイトとの決別という苦難に満ちた過程を経ることで、普遍的無意識に達する井戸を開通させたのだと言える。
現代社会でうつになりやすい性格の人々の特徴は、一言でいうならば、ものごとの本質・本筋・矛盾を見抜く目に曇りがないことである。
だから、まわりの雰囲気や慣習や馴れ合いに流されず、いつも本当のことが見えてしまう。
要するに、非常にシャーマン的なのだ。
前回の記事でも述べたが、こういった人々の割合は、どれほど多く見積もっても1パーセントくらいではないかと、私は考えている。
まさに特殊と言わざるを得ない。
そして、そこにこそうつの人々の苦悩と劣等感がある。
一般の人々は、自力では大きな存在とは繋がれない。それを導き、繋げてやるのがシャーマンである。
本来の姿のままに自然と人間とが有機的に絡み合い、人間性が生き生きとした文化の中であったならば、シャーマンのような立場となるべき人が、うつになるタイプの人々の中には少なくないのではないかと思うのである。
本来ならば、常に真実を見、正しい言葉を語り、尊敬を集めてこそしかるべき人々が、踏みつけにされもがき苦しまねばならない社会。
一体われわれは、これをどうすればいいのだろうか。