ここのところ古い記事を手直しし、アップしなおす作業をしていた。
改めて読み返してみると、「うつ」や「人の心」というものについて長い間考え続け、満を持してこのブログ執筆だったので、まさにそれらを吐き出していたんだなあと思い出す。
明らかに、言葉の温度が高かった。
もちろん、書きたいネタ自体は、今でも次から次へと浮かぶのだが。
ところが、拍手数やコメントの数を見てみると、古い記事の中でも私自身がかなり気に入っているものについては、意外とかなり少ないことが分かった。とくに『感情』という記事である。
私自身が幼い頃、昆虫たちに加えてきた虐待についての記事だ。
残酷な話なので、正直ちょっと書くことがためらわれたのだが、自分の中の見たくないものから目を逸らさず、できるだけ正確に見るという作業を公開の場で行なうことで、このブログが「きれいごとではない」ということを示しておきたかったのだ。
今読み返しても、それを書いたときの迷いや、チクリと胸を刺すような感覚が蘇る。
あらゆるカウンセリングの山場においては、まず例外なく、こうした「目を逸らさぬ苦痛」がともなう。
この苦痛がいかに大きなものであったとしても、今とは違う場所に辿り着こうとする以上、こればかりは乗り越えないわけにいかないのである。
もちろん、何人たりとそれを強要するべきではない。
違う場所に行こうとするのかしないのか、それは当人の選択によるべきものだ。
言うまでもなく、我々カウンセラーもまた強要できる立場にはない。
しかし、違う場所に行く道を選択する以上は、必ず乗り越えなくてはならない。
ここには、選択の余地はないのである。