大阪の幸朋カウンセリングルーム・記事集

記事集:第一歩の瞬間

以前の記事で、「うつを乗り越えるためには、勇気をもって周囲の言葉に耳を貸さなくなる必要がある」と述べた。
うつの人にとってこのことは本当に大事なのだが、また同時に非常に難しいことでもある。
彼らの多くは、幼いころから「どうやら自分は、周囲とものの見方が違う」と感じ、しかも少数派であることが多々あるため、「自分の方が変……らしい」と思い込まされているためである。

「他人に「そこで腹を立てるのはおかしい」と言われる以前に、自分で「ここで腹を立てる自分がおかしい」と思ってしまうのです。」
と、ブログにコメントを下さった方がいた。
胸が詰まる。
いったい自分は、何のために生きているのか、何のために生まれてこなくてはならなかったのか分からなくなるあの感じが、まざまざとよみがえってくる。

理屈では決して自分は間違っていないのに、「悪いのは自分のほうなのだ」と思い込む。
決してそれが最良の答えでないことは、自分自身どこかで分かっているが、その場しのぎにしろ何とか納得するためには、「何もかも自分が悪いのです」と認めることが結果として一番ましな方法なのだ。

それが習い性(ならいしょう)となった時、人から指摘されるより先に、自分で自分の非を認め、自らが感情をもつこと自体を悪とみなすようになる。
それは、「自分は不当なことはしていない」という、考えと感情の封印である。
この封印の度合いが強ければ強いほど、うつは深いと言ってよい。

これから書く例は、ある特定の人のことではなく、私がカウンセリング場面で出会った一部の方々に共通している部分を抽出し、ある程度アレンジした、架空の話だと思っていただきたい。
もちろん、特定の個人を思わせるような記述は一切避けるので、抽象的すぎる感があるのはお許しいただきたい。


小さな頃からずっと、他の兄弟から理不尽な目にあわされてきた人がいた。
しかもその兄弟たちは、誰の目から見てもそれと分かる形でひどいことをやるのではなく、いつも陰にまわって、親まで巻き込んで巧みにその人を陥れるために、その人は常に家族の中で劣等者・変わり者あつかいされ続けてきた。

言い返そうとしたことは、幾度となくあった。
しかし、常に多数決で負けるために、やがてその人にとっては、自分の感情は半分殺しておくというあり方が常となった。
逆らえば火に油を注ぎ、たちまち集中砲火を浴びるに違いなかったし、反発心を表情にすら出さないようにするためには、感情そのものが出ないようにしておく必要があったからだ。

感情を半分殺している人にとっては、集団の中でにこやかに過ごすことなど、途方もなく困難な仕事である。
したがって、この人にとっては、学校生活もまた苦痛に満ちたものだった。
そうしたぎこちなさをいじめっ子に嗅ぎ取られてか、いじめにあうことも少なくなかった。
家族関係の中で植えつけられたこの人の劣等感は、さまざまな人間集団の中で、さらに強められていった。

後年、うつを発症したその人は、自分の引きずっている家族に対する感情を断ち切ろうと、さまざまな人に相談した。

相談された人々はたいてい、家族の理不尽さは理解してくれたが、しかし一様に「もうそろそろ許してあげなさい」「恨んだところで過去は取り戻せません」「大人になりなさい」などと、まず例外なくその人の感情をなだめようとした。
そして、その人自身もまた、どこか鬱勃としつつもそのように努力した。

無理に決まっていた。
感情を抑えるということは、その人自身が誰よりも怠らずに行なってきたことであり、そもそもうつになったのはその結果だからである。
当然ながら、周りから言われるように努力すればするほど、うつはますます深まっていった。


このような人がカウンセリングに訪れた場合、カウンセリングはどのように進んでいくのか。

早い段階のカウンセリングでは、さまざまな具体的なエピソードを、大雑把ではなく、かなり細かい質問を投げかけつつ、詳細に聞き込むことが不可欠である。
カウンセラーの当て推量や思い込みを慎重に避け、その人の置かれてきた状況や感情的体験を、できるだけリアルに描き出すためである。

こういった人の話を細かく聞き込んでいると、まず人として、怒りが抑えようもなく頭をもたげてくる。
もちろん、その人を理不尽に押さえつけた人々に対してだ。
しかもその怒りは、できるだけ客観的に、正確に、中立的に、状況やそれぞれの人格を分析すればするほど、より強いものとなる。
(中立的であることとは、誰に対しても怒りを覚えないことではない。)

自分の話を聞き、怒りを覚えているこちらの様子を見て、その人はまず最初戸惑いを覚える。
認められた経験の少ないその人にとって、こちらが見慣れぬ反応をしているからである。

もちろんカウンセリングの回を重ねる中でのことだが、その人は、「私のほうも悪かったとは思うんですが……」といった表現を、幾度となく繰り返す。
そういった言葉に対して、私の場合まず聞き流すことなく「どういった点で、ご自分も悪かったと思われるのですか?」と尋ねる。
もちろん、尋ねることになっているから尋ねるのではない。尋ねないわけにいかないから尋ねるのである。

すると多くの場合、その人には何ら非のないことが分かる。
そもそも、相手にも自分にも非があると分かりきっている話を、カウンセラーの前でしても意味がないのだから、当然といえば当然だ。

当然こちらは、「あなたには一切、非があったとは言えませんね」と伝えるのだが、同時に、「あなたは、本当にご自分も悪かったと思っておられたのですか?」とさらに尋ねることがある。

すると、「本当に悪いと思ってました」と、なかば驚いたような表情で答える人もいる。
それはそれで大きな気づきがあったわけだが、逆に、意を決した表情で居住まいを正し、ピタリとこちらを見据えて、
「いえ、本当を言うと、自分が悪いなんて思っていませんでした」と答える人もいる。

この人は、まさにこの瞬間、勇気をもって一歩を踏み出したのだなと感じる。

うつの人が自分の正当性を認めるということが、どれほどの勇気を必要とするのかはかり知れないものがあるのだが、カウンセラーという職業の者は、その瞬間をたびたび目にする機会に恵まれている。
だからこそ私は、カウンセラーという職業を続けようとするのだ。

ただ延々と心の病を抱えつづけるプロセスにつき合うことがカウンセラーの仕事だとすれば、私はカウンセラーという職業に何の意味も見出さないだろう。

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